ボクシングの伝来と協会の歴史

第三章 ボクシングの父・渡辺勇次郎

日本のボクシングが本格的なスタートを切るのは大正に入ってからとなる。
柔道初段の腕前を持っていた16歳の渡辺勇次郎少年が外国語を会得する目的で渡米したのは1906年、明治39年の秋だった。
排日傾向の強い当時、サンフランシスコでのケンカで“KO”された渡辺は、これを機にボクシングを学ぶこととなる。6ヵ月後、渡辺はアマチュア大会で3回KO勝ちを収めてみせる。

15年間のアメリカ生活を終えた渡辺が「ボクシング」という新しい競技とともに横浜港に帰国したのは、1921年(大正10年)の1月のことだった。
その年の12月25日、渡辺は東京・下目黒に「日本拳闘倶楽部」(略称・日倶)の道場をオープンした。ちなみに当時の入会金は5円、月会費も5円だったが、入門者が皆無だったために、すぐに入会金3円、月会費2円に値下げされたのだとか。
その甲斐あってか、まもなく渡辺の下には滝沢吉助、荻野貞行、吉本武雄、久場清らが入門した。

それから約1年後の大正11年(1922年)秋、選手の目標をつくるために日倶はチャンピオン制度を制定した。最初は2クラスで、ジュニア・フェザー級(現在のスーパー・バンタム級)の荻野貞行、フェザー級の横山金三郎に勝った者をチャンピオンに認定するとして対戦者を募集したが、申込者がなかったため荻野と横山がそのままチャンピオンに認定されたという経緯がある。
これが日本における「チャンピオン」の原型といわれる。