ボクシングの伝来と協会の歴史

第四章 ジム創設ラッシュと拳闘協会発足

大正13年(1924年)7月、日倶に次ぐ日本2番目のジム「東京拳闘会」が設立された。
このジムからは野口進(日本ウェルター級王者=野口ジム創設者)、大森熊蔵(日本スーパー・ライト級王者)、佐藤東洋(日本フェザー級&スーパー・フェザー級王者)らが育つ。

これと前後して浅草に「パーク拳闘倶楽部」、銀座に「銀座拳闘倶楽部」、駒込に「クインズベリー拳闘倶楽部」が新設され、大正15年(1926年)7月には新橋に「帝国拳闘協会拳道社」(帝拳)が設立された。

こうした流れのなか昭和6年(1931年)2月11日、「全日本プロフェッショナル拳闘協会」が組織化された。これが「協会」の始まりといわれる。
このときの加盟クラブ(ジム)は、大日拳、帝拳、日倶、東洋拳、東京ボクシング倶楽部、東亜拳闘倶楽部の6クラブ(ジム)だった。当時の協会は現在と異なり、競技の統制や選手権の認定、選手の養成などを行うことを目的としており、今日のコミッションの役割も兼ねていたといえる。

しかし、翌昭和7年(1932年)春、帝拳と大日拳が協会を脱退し、分裂状態となった。
この2大勢力による対峙は昭和8年(1933年)、読売新聞社主催の日仏対抗戦を機に収束。その後、協会は「全日本拳闘連盟」と名称を変えたが、それもつかの間昭和11年に「大日本拳闘連盟」と二分裂し、さらに昭和12年(1937年)になって脱退するクラブが相次いだために解散となってしまう。

拳闘連盟解散後も興行は行われており、昭和15年(1940年)には必要に迫られて30を越えるクラブ(ジム)によって「東京拳闘連合会」という名の新協会が結成された。
戦時下の昭和18年(1943年)、協会は「大日本拳闘協会」と改称し、それまで各クラブが個々に行ってきた興行を一手に統括して開催する方式を採って難局を乗り切ろうと試みた。
ところが、それもつかの間の翌19年(1944年)、時局に迫られた協会は事実上の解散を決断することとなる。