第一章
ボクシングの起源と歴史
第二章
ペリー提督によって日本に伝来
第三章
ボクシングの父渡辺勇次郎
第四章
ジム創設ラッシュと拳闘協会発足
第五章
分裂、コミッション設立解散、再編
権利闘争を経て確立された女子ボクシング
33年前にはNYに初の女性ジャッジ誕生
日本最初の女子試合は昭和25年
「見るスポーツ」から「やるスポーツ」へ
戦う女性がいるのだから、試合を裁く女性がいてもいい。 1975年、エバ・シャインはニューヨーク・アスレチック・コミッションに手紙を書き、審判に採用するよう要請した。聴聞会を経てライセンスを給付されたシャインは2年後、モハメド・アリ対アーニー・シェーバースの世界ヘビー級タイトルマッチのジャッジとして起用されている。 のちにパトリシア・ジャーマンやバーバラ・ペレスなど女性ジャッジは決して珍しい存在ではなくなるが、シャインはその先駆だったといえる。
同じ75年、ラスベガスのある米国ネバダ州ではキャロライン・スベンセンが同州初の女性プロボクサー・ランセンスを認められ、翌76年にはカリフォルニア州でパット・ピネダが初の女性プロボクサーとしてライセンスを受けている。
70年代後半になるとキャシー・“キャット”・デービス、シャリー・“ゼブラ”・タッカー、マリアン・“タイガー”・トリミアーらがニューヨークでライセンスを取得したが、これは女性ボクサーを認めるか認めないかの訴訟のすえに勝ち得たものだった。 ちなみに身長178センチ、ブロンド髪のライト級ボクサー、デービスはのちに「リング誌」の表紙を飾るほどの人気者になる。
女子ボクシングにとって80年代と90年代初頭はライセンス発行を巡る法廷闘争の年代だったといえるだろう。アメリカだけでなくイギリスなど世界各国で女性ボクサーが戦う権利を主張、その多くが勝利を収めている。 その結果、世界各地でアマチュア、プロを問わず数多くのイベントが開催されることとなり、今日に至るのである。
ことに90年代以降、女子ボクシングを世間に広く認知させたという意味においては、クリスティ・マーチン、ミア・セント・ジョン、ルシア・ライカ、そしてレイラ・アリらの名前を挙げることができる。ちなみに現在、世界中で活動している女子ボクサーの数は1000人を超すというデータもある(BOX REC)。
21世紀に入ってWBA、WBCなど主要統括団体が女子の世界タイトルを認定したのは、そうした時代の流れに沿ってのことといえよう。