ボクシングの伝来と協会の歴史

第五章 分裂、コミッション設立、解散、再編

終戦翌年の昭和21年(1946年)、日本ボクシング界はいち早く復興を果たし、その年7月8日には28のクラブ(ジム)が集って「日本拳闘協会」を発足させた。
協会は翌22年(1947年)、毎日新聞社らとの共催で戦後最初の日本チャンピオン決定戦を開催し、花田陽一郎(フライ級)、堀口宏(バンタム級)、ベビー・ゴステロ (フェザー級)、笹崎タケシ(ライト級)、河田一郎(ウェルター級)、新井正吉(ミドル級)という6人のチャンピオンを誕生させた。

昭和23年(1948年)、「日本拳闘協会」は理事長に本田明、常任理事に堀口恒男(ピストン堀口)、玄海男、林国治らを選出したが、ほどなくして不満分子が「全日本ボクシング連盟」を組織して脱退してしまう。

協会、連盟両組織の対立は紆余曲折を経て翌24年(1949年)暮になって解消され、総会における決議で「東日本ボクシング協会」の名で新たなスタートを切ることとなる。これを母体として、やがて「全日本ボクシング協会」が発足することになる。

ここまでの協会は名称や加盟クラブなどを随時変えながらも、業界の統制や管理、選手の育成から興行までを幅広くカバーしてきたが、昭和27年(1952年)になって白井義男が世界フライ級タイトルに挑むのを機に、コミッションの設立に迫られることとなる。その流れのなか同年4月20日、田辺宗英を初代コミッショナーとする「日本ボクシング・コミッション」(JBC)が組織された。これを機に「全日本ボクシング協会」はその任務を終えたとして解散するのである。
蛇足だが、現在のOPBFの前身であるOBF(東洋ボクシング連盟)は、これより2年後の昭和29年(1954年)、日本、フィリピン、タイの三国によって組織される。

白井義男の世界フライ級タイトル奪取から5年後の昭和32年(1957年)、業界内に「プロモーター協会」が発足し、続いて「マネージャー協会」「オーナークラブ」などが結成された。
これらは昭和37年(1962年)4月に「日本ボクシング協会」の名称のもとに合同化された。JBC設立にともなって解散した協会が10年ぶりに再編されたのである。
初代会長には帝拳ジム会長の本田明が就任した。以下、副会長・岡本不二(不二拳会長)、小高伊和夫(極東拳代表)、専務理事・中村信一(中村拳会長)、笹崎タケシ(笹崎拳会長)、事務局長・岩橋清次(興伸ジム代表)という陣容だった。

それから10年後の昭和47年(1972年)5月、モハメド・アリ(米)の来日イベントに関する興行問題や金銭問題などが端緒となって協会は二分裂する。協会を脱退したグループが第2団体として「全日本ボクシング協会」を組織、従来の「日本ボクシング協会」と対峙したのだ。しかし、団体間の選手の交流やイベント共催は続けられたため、実害は最小限に食い留められた。この対立は三迫仁志の尽力によって5年ほどで解消される。

以後、協会長は三迫仁志(三迫ジム会長)、金平正紀(協栄ジム会長)、河合哲郎(横浜協栄ジム会長)、木村七郎(新日本木村ジム会長)、米倉健司(ヨネクラジム会長)と引き継がれてきた。

現在の原田政彦体制は平成元年(1989年)3月1日にスタート。以来、7期19年(2008年3月時点)にわたって続いている。その間、2000年には名称を「日本プロボクシング協会」(JPBA)に改称、現在に至る。