[ボクシングの伝来と協会の歴史]

第一章 ボクシングの起源と歴史

 ボクシングの起源に関しては、1万年前というものや紀元前4000年〜同3000年前とするもの、あるいは古代ギリシャ&ローマ時代とするものなど諸説ある。が、遅くとも紀元前600年代の古代ギリシャで行われていたオリンピックにはボクシングの原型が見られるというから、この競技の歴史が極めて古いことは間違いない。

 しかし、ローマが東西に分裂後の5世紀初頭、ローマ皇帝によってボクシング(当時の呼称は「ピュージリズム」)は禁止され、この競技はのち1200年以上も封印されることとなる。

 今日のボクシングに繋がる競技が復活したのは18世紀に入ってからのことだった。19世紀半ば(1867年)になると、反則の定義やラウンド制が整備された「クイーンズベリー・ルール」が採用されることとなる。

 グローブを着用するなどルールに則って覇権を争う現代方式のボクシングが確立したのは、1892年のジョン・ローレンス・サリバン対ジェームス・コーベットの世界ヘビー級タイトルマッチといわれる。これと前後して体重無差別で戦ってきた者たちがヘビー級、ライト級、ミドル級と分かれ、現在のように細分化された階級制を形作っていくことになるのである。


第二章 ペリー提督によって日本に伝来

 日本のボクシングは、渡辺勇次郎が東京・下目黒に「日本拳闘倶楽部」を設立した1921年(大正10年)12月25日を始まりとするのが定説である。

 しかし、これより以前にもボクシングと思しきものが日本でも目撃されている。もっとも古いのは19世紀半ば、ペリー提督の来航時のものだ。

 いまから150年以上も前の1853年、浦賀に来航したペリー提督は江戸幕府に開国を迫り、翌1854年、今度は横浜に約500人の兵士を上陸させた。

 幕府は、下田と箱館(現在の函館)開港や下田にアメリカの領事を駐在させるなどの条項が織り込まれた日米和親条約を締結。条約締結後まもなく、ペリー提督は即時開港となった下田に黒船7艘を集結させ、軍楽隊や水兵約300人を従えて上陸した。

 こうしたペリー提督来航の際、船上で屈強な水兵たちが拳に薄皮布を巻いて殴り合う様子(スパーリング=当時の呼称は「スパラ」)が再三目撃されたというのである。これが日本に伝えられた最初のボクシングとされる。

 ペリー提督が横浜で和親条約締結を迫った際には、幕府側が召集した力士(大関・小柳常吉)と、アメリカ側のレスラー&ボクサー計3人が“異種格闘技戦”を行ったという史実も残っている(勝負は小柳の圧勝)。

 1850年代というと、まだイギリスで「クイーンズベリー・ルール」が定められる以前のことである。

 ところで、日本で最初のボクサーは誰なのか――これも諸説あるが、もっとも有力とされるのが浜田庄吉という人物だ。
 もともと力士だった浜田は親方と摩擦が生じたのを機に、後輩の相撲とりや柔道家を連れて渡米。現地でボクサーやレスラーと他流試合をしてまわったのだとか。

 そして3年後に現地のボクサーやレスラーを伴って帰国したといわれる。明治17年(1884年)〜21年(1888年)ごろのことである。


第三章 ボクシングの父・渡辺勇次郎

 日本のボクシングが本格的なスタートを切るのは大正に入ってからとなる。
柔道初段の腕前を持っていた16歳の渡辺勇次郎少年が外国語を会得する目的で渡米したのは1906年、明治39年の秋だった。
 排日傾向の強い当時、サンフランシスコでのケンカで“KO”された渡辺は、これを機にボクシングを学ぶこととなる。6ヵ月後、渡辺はアマチュア大会で3回KO勝ちを収めてみせる。

 15年間のアメリカ生活を終えた渡辺が「ボクシング」という新しい競技とともに横浜港に帰国したのは、1921年(大正10年)の1月のことだった。
 その年の12月25日、渡辺は東京・下目黒に「日本拳闘倶楽部」(略称・日倶)の道場をオープンした。ちなみに当時の入会金は5円、月会費も5円だったが、入門者が皆無だったために、すぐに入会金3円、月会費2円に値下げされたのだとか。
 その甲斐あってか、まもなく渡辺の下には滝沢吉助、荻野貞行、吉本武雄、久場清らが入門した。

 それから約1年後の大正11年(1922年)秋、選手の目標をつくるために日倶はチャンピオン制度を制定した。最初は2クラスで、ジュニア・フェザー級(現在のスーパー・バンタム級)の荻野貞行、フェザー級の横山金三郎に勝った者をチャンピオンに認定するとして対戦者を募集したが、申込者がなかったため荻野と横山がそのままチャンピオンに認定されたという経緯がある。
 これが日本における「チャンピオン」の原型といわれる。


第四章 ジム創設ラッシュと拳闘協会発足

 大正13年(1924年)7月、日倶に次ぐ日本2番目のジム「東京拳闘会」が設立された。
 このジムからは野口進(日本ウェルター級王者=野口ジム創設者)、大森熊蔵(日本スーパー・ライト級王者)、佐藤東洋(日本フェザー級&スーパー・フェザー級王者)らが育つ。

 これと前後して浅草に「パーク拳闘倶楽部」、銀座に「銀座拳闘倶楽部」、駒込に「クインズベリー拳闘倶楽部」が新設され、大正15年(1926年)7月には新橋に「帝国拳闘協会拳道社」(帝拳)が設立された。

 こうした流れのなか昭和6年(1931年)2月11日、「全日本プロフェッショナル拳闘協会」が組織化された。これが「協会」の始まりといわれる。
このときの加盟クラブ(ジム)は、大日拳、帝拳、日倶、東洋拳、東京ボクシング倶楽部、東亜拳闘倶楽部の6クラブ(ジム)だった。当時の協会は現在と異なり、競技の統制や選手権の認定、選手の養成などを行うことを目的としており、今日のコミッションの役割も兼ねていたといえる。

 しかし、翌昭和7年(1932年)春、帝拳と大日拳が協会を脱退し、分裂状態となった。
 この2大勢力による対峙は昭和8年(1933年)、読売新聞社主催の日仏対抗戦を機に収束。その後、協会は「全日本拳闘連盟」と名称を変えたが、それもつかの間昭和11年に「大日本拳闘連盟」と二分裂し、さらに昭和12年(1937年)になって脱退するクラブが相次いだために解散となってしまう。

 拳闘連盟解散後も興行は行われており、昭和15年(1940年)には必要に迫られて30を越えるクラブ(ジム)によって「東京拳闘連合会」という名の新協会が結成された。
 戦時下の昭和18年(1943年)、協会は「大日本拳闘協会」と改称し、それまで各クラブが個々に行ってきた興行を一手に統括して開催する方式を採って難局を乗り切ろうと試みた。
 ところが、それもつかの間の翌19年(1944年)、時局に迫られた協会は事実上の解散を決断することとなる。


第五章 分裂、コミッション設立、解散、再編

 終戦翌年の昭和21年(1946年)、日本ボクシング界はいち早く復興を果たし、その年7月8日には28のクラブ(ジム)が集って「日本拳闘協会」を発足させた。
 協会は翌22年(1947年)、毎日新聞社らとの共催で戦後最初の日本チャンピオン決定戦を開催し、花田陽一郎(フライ級)、堀口宏(バンタム級)、ベビー・ゴステロ (フェザー級)、笹崎タケシ(ライト級)、河田一郎(ウェルター級)、新井正吉(ミドル級)という6人のチャンピオンを誕生させた。

 昭和23年(1948年)、「日本拳闘協会」は理事長に本田明、常任理事に堀口恒男(ピストン堀口)、玄海男、林国治らを選出したが、ほどなくして不満分子が「全日本ボクシング連盟」を組織して脱退してしまう。

 協会、連盟両組織の対立は紆余曲折を経て翌24年(1949年)暮になって解消され、総会における決議で「東日本ボクシング協会」の名で新たなスタートを切ることとなる。これを母体として、やがて「全日本ボクシング協会」が発足することになる。

 ここまでの協会は名称や加盟クラブなどを随時変えながらも、業界の統制や管理、選手の育成から興行までを幅広くカバーしてきたが、昭和27年(1952年)になって白井義男が世界フライ級タイトルに挑むのを機に、コミッションの設立に迫られることとなる。その流れのなか同年4月20日、田辺宗英を初代コミッショナーとする「日本ボクシング・コミッション」(JBC)が組織された。これを機に「全日本ボクシング協会」はその任務を終えたとして解散するのである。
蛇足だが、現在のOPBFの前身であるOBF(東洋ボクシング連盟)は、これより2年後の昭和29年(1954年)、日本、フィリピン、タイの三国によって組織される。

 白井義男の世界フライ級タイトル奪取から5年後の昭和32年(1957年)、業界内に「プロモーター協会」が発足し、続いて「マネージャー協会」「オーナークラブ」などが結成された。
これらは昭和37年(1962年)4月に「日本ボクシング協会」の名称のもとに合同化された。JBC設立にともなって解散した協会が10年ぶりに再編されたのである。
 初代会長には帝拳ジム会長の本田明が就任した。以下、副会長・岡本不二(不二拳会長)、小高伊和夫(極東拳代表)、専務理事・中村信一(中村拳会長)、笹崎タケシ(笹崎拳会長)、事務局長・岩橋清次(興伸ジム代表)という陣容だった。

 それから10年後の昭和47年(1972年)5月、モハメド・アリ(米)の来日イベントに関する興行問題や金銭問題などが端緒となって協会は二分裂する。協会を脱退したグループが第2団体として「全日本ボクシング協会」を組織、従来の「日本ボクシング協会」と対峙したのだ。しかし、団体間の選手の交流やイベント共催は続けられたため、実害は最小限に食い留められた。この対立は三迫仁志の尽力によって5年ほどで解消される。

 以後、協会長は三迫仁志(三迫ジム会長)、金平正紀(協栄ジム会長)、河合哲郎(横浜協栄ジム会長)、木村七郎(新日本木村ジム会長)、米倉健司(ヨネクラジム会長)と引き継がれてきた。

 現在の原田政彦体制は平成元年(1989年)3月1日にスタート。以来、7期19年(2008年3月時点)にわたって続いている。その間、2000年には名称を「日本プロボクシング協会」(JPBA)に改称、現在に至る。


[女子ボクシングの歴史]

第一章 権利闘争を経て確立された女子ボクシング

 女性のボクシングの歴史は思いのほか古い。
 海外のある専門サイトによると、1722年にロンドンでエリザベス・ウィルキンソンという名の女性がマーサ・ジョーンズという女性と戦って勝ったという記録が残っているのだとか。もちろん現在のような厳密なルールのもとに行われた試合ではなく、蹴りや投げもありの格闘だったと推察される。

 アメリカでは1876年にニューヨークの劇場で女性同士が拳を交えたとのレポートがある。これがアメリカ初の女性ボクシングではないかというのが通説となっている。

 1904年の第3回セントルイス・オリンピックでボクシング(男性)が採用されると、女性のボクシング熱も上昇。1920年ごろにはボストンで、女性のフィジカル・トレーニングにボクシングが採り入れられるといった動きがみられた。

 こうした黎明期を経て1950年代にはバーバラ・バトリックという女性の試合が初めてアメリカでテレビ電波に乗った。イギリス生まれのバトリックは150センチ足らずの小柄な女性だったが「リングの小さなアトム」と呼ばれて人気を集めた。

 イギリスで活動を開始し、のちにはフロリダをベースにして活躍。一説には31戦して敗北はたった一つだったといわれている。エキジビションにいたっては数千試合もこなしたと伝えられる。
 62年に引退したが、15年後の77年に短期間だけカムバックした記録が残っている

第二章 33年前にはNYに初の女性ジャッジ誕生

 戦う女性がいるのだから、試合を裁く女性がいてもいい。
 1975年、エバ・シャインはニューヨーク・アスレチック・コミッションに手紙を書き、審判に採用するよう要請した。聴聞会を経てライセンスを給付されたシャインは2年後、モハメド・アリ対アーニー・シェーバースの世界ヘビー級タイトルマッチのジャッジとして起用されている。
 のちにパトリシア・ジャーマンやバーバラ・ペレスなど女性ジャッジは決して珍しい存在ではなくなるが、シャインはその先駆だったといえる。

 同じ75年、ラスベガスのある米国ネバダ州ではキャロライン・スベンセンが同州初の女性プロボクサー・ランセンスを認められ、翌76年にはカリフォルニア州でパット・ピネダが初の女性プロボクサーとしてライセンスを受けている。

 70年代後半になるとキャシー・“キャット”・デービス、シャリー・“ゼブラ”・タッカー、マリアン・“タイガー”・トリミアーらがニューヨークでライセンスを取得したが、これは女性ボクサーを認めるか認めないかの訴訟のすえに勝ち得たものだった。
 ちなみに身長178センチ、ブロンド髪のライト級ボクサー、デービスはのちに「リング誌」の表紙を飾るほどの人気者になる。

 女子ボクシングにとって80年代と90年代初頭はライセンス発行を巡る法廷闘争の年代だったといえるだろう。アメリカだけでなくイギリスなど世界各国で女性ボクサーが戦う権利を主張、その多くが勝利を収めている。
 その結果、世界各地でアマチュア、プロを問わず数多くのイベントが開催されることとなり、今日に至るのである。

 ことに90年代以降、女子ボクシングを世間に広く認知させたという意味においては、クリスティ・マーチン、ミア・セント・ジョン、ルシア・ライカ、そしてレイラ・アリらの名前を挙げることができる。ちなみに現在、世界中で活動している女子ボクサーの数は1000人を超すというデータもある(BOX REC)。


21世紀に入ってWBA、WBCなど主要統括団体が女子の世界タイトルを認定したのは、そうした時代の流れに沿ってのことといえよう。


第三章 日本最初の女子試合は昭和25年

 明治、大正、昭和、平成の時代を生きたボクシング評論家、郡司信夫氏が著した「ボクシング百年」(時事通信社刊)によると、日本における女子ボクシングの歴史は大正年間にまで遡るとされる。
米国シアトル生まれの女優、砂田駒子が夫フランク徳永とともに大正12年(1923年)ごろ、日本拳闘倶楽部(日倶)でトレーニングしたのが最初ではないかというのだ。

 昭和7年(1932年)には石田正子という大柄な砲丸投げ選手が日米拳でトレーニングを積み、男性ボクサーとのスパーリングでも五分に渡り合ったと伝えられている。この石田は日比谷公会堂で男性ボクサーとの試合も決まっていたが、前日になって警視庁条例に違反するとして出場が取り止めになったのだとか。時代を象徴するような出来事といえよう。

 実際に女性が試合をした例となると昭和25年(1950年)11月19日、広島で行われた石倉節子対菅間和子の2分×4回戦であるとされる。当時、石倉は22歳、ユニオン・ボクシングクラブに所属し、ジムでの練習期間は約1年。対する菅間は北大阪ボクシングクラブ所属の18歳。こちらの練習期間は1年に満たなかったと伝えられる。


 この両者は翌昭和26年(1951年)1月2日、日比谷公会堂で再びグローブを交えている。以下は、「ボクシング百年」における郡司氏の“戦評”である。
「試合は胸に乳あてをしてやるが、スローモーションでスピードはなく、男のボクシングと比較し得るものはなにもない。ことに鼻血などを出すと男性のものよりも残酷に見えて、ショーとしても低調なもの。『男性とは試合しない』と声明したが、男性とやれる代物ではない。両者とも左ジャブ、右ストレートなどで戦ったが、二分四回戦を引き分けに終わった」

 この石倉と菅間は、以降も何度かエキジビション的な扱いでリングに上がってグローブを交えたというが、公式試合としての記録は残っていない。


第四章 「見るスポーツ」から「やるスポーツ」へ

 これより20年以上経った昭和49年(1974年)4月、埼玉中央ジムの27歳の女性トレーナー、高築正子が後楽園ホールのリングに上がり、同ジムの男性ボクサーと2ラウンドのエキジビションを披露した。こちらはスピードもバランスも素晴らしく、リングサイドの常連を唸らせたほどだった。

 高築以降、ボクシングの動作がスポーツジムのエクササイズに取り入れられるという時代の流れなどもあって、ボクシングは女性にとっても「見るスポーツ」から「やるスポーツ」に部分的に変化していったといえる。
 1980年代に入ると、積極的に女性会員を募るボクシングジムも増え、相まって女性の練習生は年々その数を増加させていった。

 1990年代になると海外のビッグマッチのアンダーカードでクリスティ・マーチン(米)らが激闘を展開し、それがテレビで放送されるにおよんで女子ボクシングの認知は一気に高まった。日本でも女性専門のボクシングジムが開設され、また女子ボクシングのスパーリング大会が開催されるなど、新たな動きが現れる。


 こうした流れのなか、90年代後半になると日本の女子ボクシングは独自の団体を立ち上げ、JBCの管轄外において興行と試合を行うまでになった。やがて2分×10ラウンド制で日本チャンピオンも誕生させた。
 21世紀を迎えるとアマチュア・ボクシング界も女性に門戸を開放することとなり、型認定を採り入れるなどして競技の振興を図っている。

 数々の認定団体が乱立する女子ボクシング界だが、06年には菊地奈々子がWBC女子ストロー級(ミニマム級)タイトルを獲得するなど、「大和撫子」の近年の活躍ぶりは目を見張るものがある。


[キッズBOXING]

 子供がボクシングをするというと一部には眉を潜める輩がいるかもしれないが、世界的にみれば「キッズ・ボクシング」は決して珍しいことではない。むしろ、欧米はじめ中南米などではサッカーやバスケットボールと同様に子供の遊びの延長として広く普及しているほどである。下記のデータを見ていただければ一目瞭然であろう。世界のトップ選手ともなると、十代後半で始めたというボクサーは極めて稀といってもいいだろう。


オスカー・デラ・ホーヤ(米) 6歳
フロイド・メイウェザー(米) 7歳
マニー・パッキャオ(比) 12歳
ミゲール・コット(プエルトリコ) 11歳
マルコ・アントニオ・バレラ(メキシコ) 7歳
リッキー・ハットン(英) 10歳
シェーン・モズリー(米) 8歳
ロイ・ジョーンズ(米) 10歳
フェリックス・トリニダード(プエルトリコ) 12歳


 多くの国では、少年拳士たちが練習の成果を披露するためのキッズの大会 も頻繁に開催されている。もちろん、こうした大会においては入念なメディカル・チェックが行われていることはいうまでもない。


 のちの世界6階級制覇チャンピオン、オスカー・デラ・ホーヤと、同じく3階級制覇を成し遂げるシェーン・モズリーが初めてグローブを交えたのは、米国ロサンゼルスで開催された少年の大会だったという。デラ・ホーヤ11歳、モズリー12歳のときのことである(結果はモズリーのポイント勝ち)。
 ちなみにデラ・ホーヤは228戦223勝5敗、モズリーは260戦250勝10敗というアマチュア戦績を残している。このふたりはプロでも世界タイトルをかけて2度対戦しているが、そのライバル・ストーリーはキッズ時代から続いていることになる。


 少年ボクサーの多くは、やがてジュニアの大会にも出場するようになり、17歳を超えるとオリンピックや世界選手権出場を狙う者と、プロデビューを目指すものとに大別されることとなる。そしてアマチュアに残った者のなかからも、のちにプロ転向を果たす選手が出てくる。
 オリンピックで金メダルを獲得、プロでも成功を収めたデラ・ホーヤのような例がある一方で、プロ転向を果たさずにアマチュアで競技人生を終える者も決して少なくはない。

 この際、日本で普及している他の格闘競技のトップ選手の競技開始年齢も見てみたい。井上康生=5歳、鈴木桂治=3歳、谷亮子=7歳(以上、柔道)、伊調千春=6歳、伊調馨=1歳、吉田沙保理=5歳(以上、レスリング)。
もちろん、幼少時から競技に親しんだ者がすべて彼らのように成功を収めたわけではなく、途中で辞めたり望んだ結果を残せなかった者が大勢いることも忘れてはならない。
 しかし、一定の結果を残した者のなかには、早い時期から競技を始めた選手が多いという裏づけのデータにはなるだろう。

 さて、日本のボクシングはどうだろうか。輪島功一氏の26歳は極端な例としても、アマチュアを経ずに十代後半でボクシングを始めたという選手が多いという現実がある。それでいて55人(08年2月29日現在)もの世界チャンピオンを輩出しているのだから、いかに選手や関係者が奮闘しているかが窺い知れるというものだ。

 そんななかにあって、少数派ではあるが幼少時からボクシングに親しんできた著名選手もいる。


西城正三(元世界フェザー級チャンピオン) 10歳
大橋秀行(元世界ミニマム級チャンピオン) 11歳
辰吉丈一郎(元世界バンタム級チャンピオン) 5歳
川島郭志(元世界スーパー・フライ級チャンピオン) 3歳
星野敬太郎(元世界ミニマム級チャンピオン) 9歳
長谷川穂積(現世界バンタム級チャンピオン) 8歳
亀田興毅(元世界ライト・フライ級チャンピオン) 11歳


 いずれも日本が世界に誇るチャンピオンたちである。そして例外なく高度な攻防のテクニックを身につけた選手たちといえる。

 当事者のひとり、大橋秀行氏は「小さいときからやっているとパンチの見切りやかわし方が分かるんです。早く始めただけテクニックの面で明らかなプラスがあります」と話す。
 川島郭志氏も同意見だ。「僕は5歳か6歳で試合をやりましたが、そのころからやっていると試合慣れして冷静にやれるんです。プロの4回戦がやることを小さいころからやるわけですから、その経験は大きいですね」

 しかし、「ベビー・ボクシング」といわれた時代の西城氏や川島氏を除くと、練習の成果を公の場で発揮する機会は日本では皆無だったといえる。

 現在も「第2の辰吉」「第2の長谷川」を目指してボクシングを習っている少年は全国に大勢いる。ボクシングジムに通っているものだけでなく、自宅で指導を受けている者も少なくないはずだ。
 そうした少年たちを対象に、近年になって一部のジムが独自の大会を主催するようになったのは、まさに時代の要請といえるかもしれない。

 少年たちの試合を観戦した花形進氏(元世界フライ級チャンピオン)は、感心したようにこう話す。「小学生もそうだが、特に中学生ともなるとレベルが高い。すでにプロでも通用するような選手もいるほど。アマチュア、プロを問わず彼らにはこのままボクシングを続けていってほしい。そのためにも練習の成果を発揮する場が必要だ」

 こうした経緯と現実を踏まえ、日本プロボクシング協会ではアマチュア、プロ双方の底辺拡大、ボクシングの普及を目的に今年8月24日(日)、東京・後楽園ホールで「U−15 全国大会」を開催するものである。


 


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